2025年10月7日(火) 14:20
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西大寺は北前船や高瀬舟が寄港する 交易の中心地として繁栄し、市場の喧騒、 街の賑わいに活気が溢れていました。 江戸中期から明治の頃、西大寺の市場には、山間部からの薪や炭、高瀬舟で運ばれた米や特産品、さらには北前船でもたらされる魚肥や昆布が集まり、大変な活況を呈していました。九蟠港には大小さまざまな買積船が集まり、艀が行き交う川面には商いの活気があふれ、市場では商人たちの取引の声が飛び交いました。陸上での輸送が未発達の頃、西大寺は水運で栄え、瀬戸内海でも名だたる経済拠点としての地位を確立していたのです。

発展の起爆剤は、間違いなく北前船の寄港にありました。“動く総合商社”たる北前船は、全国各地の寄港地に大きな経済的利益をもたらしましたが、西大寺もまた寄港地としてメリットを享受しました。なかでも、観音院近くで廻船問屋を営んだ「阿波徳事」こと藤原徳太郎は、九蟠港を拠点とする彼の北前船を駆使して、瀬戸内から日本海を往復し、この地に多くの富をもたらしました。 また、九蟠港のみならず隣接する西大寺港にも、北前船寄港地として確かな痕跡が残されています。奇祭として知られる「西大寺会陽」には、北前船で財をなした兵庫の豪商・北風家が祝主を務めました。この北風家と取引関係にあった金岡湊の丸野幸吉郎もまた北前船との取引に深く関り、西大寺港も寄港地に組み込まれていたと思われます。河川港ではあるものの、物流の要衝として重要な役割を果たしていました。 吉井川水運の終点である西大寺、また北前船など外洋航路の寄港地である西大寺、まさに交通の結節点。当地はさらに「信仰」の交流拠点という要素を加えて、独自の地位を築きました。

明治13年(1880年)の『山陽新報』には、厳寒の2月、西大寺会陽に集う群衆や、祝主・福男の様子が報じられていますが、港周辺には多数の北前船と高瀬舟が結集しました。そして、西大寺観音院に押し寄せた幾多の水主(乗組員)たちは、竜神様をお祀りするとともに、会陽に参加し、水垢離した体で懸命の「地押し」(地踏み)をすることで、荒ぶる神々を鎮め、航海の安全を祈りました。

北前船は、江戸期から明治にかけて日本海・瀬戸内海航路を活用して商品を輸送した大型の帆船であり、単なる輸送手段ではなく、買積みによる自営商取引を行う商業的船舶でした。

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